国際結婚はキラキラだけじゃない!山あり!谷あり!闇もある!?

ガーナ人イスラム教徒と国際結婚して日本で、多様性と異文化、多様な価値観に揉まれながら生きる非イスラム教徒の日本人妻のブログ

映画ジャーニーから考える異文化理解の難しさ

映画ジャーニーにはこんな構図が示されています。


どんなに辛い状況においても神様を信じる

神様がその威光を示す

神を畏れ信じる者のみが救われる


しかも、この構図が極まることによって


人間が何をしてもしなくても、神を深く信じ、畏れる者のみが救われる


という考えになってもおかしくありません。

私が特に恐怖を覚えるのが、


人間が何をしてもしなくても


の部分です。

神様という圧倒的な存在の前では、人間の努力も行動もその想いすら


ないに等しい


ということです。

このルールが正しいなら、2人の人がいて、


1人は何の努力も行動もしないけど、神を深く信じ畏れているひと、

もう1人は努力と行動を起こすけれど、神を信じない人だとしたら


神様が威光を示し助けてくれるのは何の努力も行動もしないけど、神を深く信じ畏れている人


ということになります。

このルールがまかり通るなら、


人がこの世に生まれ、そして生きる意味とは?


と考えたくなります。


さすがにこんなのは映画の中だけのちょっと大袈裟な表現であって欲しいのですが、そうではありません。


夫ムサさんと話をしていると、こんな言葉をよく聞かされます。


「全ては神の手の内だから」


と。

その心は、


何か予定を人間が決めても神様の決めたことの方が優先される

だから、自分が何をしてもしなくても関係ない


というのです。

こういうのは


何もやらない言い訳


です。

これに対して私は反論します。


神様の手の内だって、人間が自分の意思で何かを決めて実行するその余裕くらいは神様だって与えてくれる


と。



日本には非常に良い言葉があります。


・人事を尽くして天命を待つ


・神は自ら助く者を助く


という言葉です。

神は自ら助く者を助くというのは英語では


God helps those who help themselves.


というので、「何もしないこと」を正当化して逃げようとするムサさんに言います。

この格言はさすがに「神」が入っているだけあって、効果絶大です。



いくら異文化といえど、映画ジャーニーが難解だと思ったのは、


神と人の在り方の捉え方が真逆


だからだとおもいます。


捉え方、考え方が真逆というのはこう言った映画に止まればいいのですが、現実社会ではいくらでも事例が挙げられるでしょう。

わかりやすいのは、外国人との付き合いの中で異文化に触れた時です。

その違いを



多様性


と表現することは簡単です。



↑↑ こういう状態が理想だけど、実際はなかなか難しいですよね



しかしここでどう対応するかで、


ずっと分かり合えないままの間柄になるのか、


「共通する考え方がない」ということが分かったのか


では、次の手が大きく変わってくることでしょう。